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原爆体験記「青空」

原爆体験記「青空」浦山喜久代

被爆地 八百屋町  当時 : 15歳
 
 あの日の事は鮮明に覚えています。当時私の父は病気で亡くなっており、母、妹二人の四人で暮らしていました。食べるものは、母が背中に着物を背負って田舎に出掛け、食料と交換してくれるという人がいれば交換してもらい、何とか食べて過ごしていくことができていました。学校から工場に行くようにと言われ、工場で細かな作業をする日々でした。
8月9日、その日も茂里町の兵器工場に行く為に友人と歩いて向かっていたところ、空襲警戒警報が鳴りました。仕事に行くべきかどうしようかと思いながらも駅前まで歩いて行くと、工場の人だったか、出会った中年の男性に「今日は工場には行かん方がよかやろう」と言われ、家に戻る事にしました。
家に着き、玄関に腰かけ、お昼には少し早かったですが、持って行っていた弁当を食べようと思いました。お弁当を一口口に入れたその瞬間、突然激しい閃光に包まれたかと思うと、身体が2、3メートル吹き飛ばされ倒れました。家に居た他の家族も吹き飛ばされました。何が起こったのか恐ろしく、アメリカが家まで来るのではないかと怖くなり、外に飛び出しました。道行く人が逃げる方向に一緒に進み、「湯江」という場所の、お寺のような建物の中で二日程身を隠しました。
長崎に原爆が落とされたことは後になって知りました。町に出ると、怪我をしている様には見えないのに、幽霊のようにユラユラ、トボトボと無言で歩いている人の姿を見ました。きっと目には見えない傷を負っていただろうに、その時自分は何もしてあげる事が出来ず、今も申し訳ない気持ちでいます。
一緒に工場に行っていた友人は、自宅に帰る途中の道で被爆し、光が当たった半身が赤く焼けたと、後で聞きました。
すぐ下の妹は、原爆投下から三日後くらいに、友人がどうしているか気になり、爆心地に近い浦上駅の近くにいったのですが、誰もおらずに帰ってきたようです。その2、3日後のこと、妹の頭髪が抜けてしまい、とても心配しました。時が経ち少しは病気が癒えましたが、とてもつらい記憶です。
戦争は本当に嫌です。二度とあってはいけません。平和な世の中を祈っています。

聞き取り職員・大坪香央里
社会福祉法人純心聖母会
〒852-8142
長崎市三ツ山町139番地2
TEL:095-846-0105
FAX:095-846-0135

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