原爆体験記「青空」
原爆体験記「青空」川下キクエ
翌朝早く、預かっていた2人の子どもの父親が網場に来た。2人の父親は、城山で防空壕にうつぶせになって真っ黒になって、ペチャンコになっている3人の遺体をお姉ちゃんと自分の子どもだと思って離れきれず、1人は頭元、1人は足もとに一晩中座り、念仏を唱えていたと言った。従兄が「網場に行ってみよう」と言い、来てみたら3人がいたので、ひどくびっくりして喜び安心して自分達の持ち場に帰って行った。
翌日、誰か知っている人がいないだろうかと思い、救護所の勝山小学校に行ってみたが、知っている人は一人もおらず死んだ人ばかりだった。ハエがぶんぶん飛んでいて、ウジがわき、体を這いずりまわっていた。銭座町で焼けただれて首のない子どをも抱いている人がいた、これが本当にかわいそうだった。昔は農業が多かったから豚やら牛やら馬やらがたくさんいて、あっちにもこっちにもごろんごろん転がっていて、その間中に死んだ人が道にずらっと並べられていた。
今、ブリックホールがある所は三菱兵器で爆弾を作っていた。浦上川は石垣のように人間が重なって「水の欲しか」と言っていた。今の原爆病院のあたりは競輪場だった。皆座って手を挙げていたが、腫れてしまって手が握られん、顔も何もわからなかった。城山の自宅の並びは5、6件ペチャンコに倒れていて、両脇は焼け野原だった。「何かなかかなあ」と探すと、ペチャンコになった家の前に自分のアルバムが玄関の前で焼けていた、そのアルバムを持って網場に帰ることにした。その時に持ち帰った写真は今も持っている。それから長崎には入っていない。
家族は皆網場にいて無事だった。私も味噌のおかげで助かった、あれを持って行かなかったら。もうあんなことは二度と嫌、もうやめてほしい。山口先生、あの人はひどかった。ずいぶん整形していた。戦争は二度と嫌。生きてるうちは戦争はしてもらいたくない。
聞き取り職員 江川 愛