被爆体験記「青空」 高谷キミエ
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被爆体験記「青空」第22集
高谷キミエ(当時19歳)元船町(3.0km)
昭和20年、私は19歳でした。元船町の工場で働きながら桜町で下宿暮らしをしていました。親、兄弟は矢上町に暮らし、弟は鹿児島の予科練に行っていました。食料難で食べていくのにやっとでしたが友人と励ましあいながら仕事や下宿での生活をしていました。
8月9日。数日前は長崎駅に爆弾が落ち、血まみれの人が大勢運ばれていくのを見ましたが、この日は空襲警報も解除されていましたし、安心して職場の建物内で友人と昼食をとろうとしていたところに赤い閃光がパーッ!!と走りました。私は三菱のタンクに爆弾が落ちて爆発したんだと思いました。走って走って、お諏訪さんを通り、本河内町まで行きました。水源地の下に横穴があり、市の水道の本管が通っていて、そこに残っている1メートル50センチ程の土管にたくさんの人が駆け込んでいました。私は足をねんざしたことにも気づかずに必死でした。行けども行けども家々が破壊され見るも無残な光景です。「港の方に爆弾が落とされたのにどうしてこんなに被害が大きいのだろう?!」と思いながら水源地の土管の中に夕方まで隠れていました。その後、矢上の自宅に夜中3時に辿り着きました。家族もみな無事でした。長崎と広島に新型爆弾が落ちたと知ったのは数日後です。
小さな頃も元気な子で、頭痛すらわからないほど病気知らずな私でしたが、戦後の不衛生な環境によって赤痢に感染し、行く病院もなく母に看病してもらう日々が続きました。梅エキス(梅をすりおろしてその汁を煮たもの)を粥に混ぜて食べるくらいで、年末までまともに食事も摂れずに苦しみました。その後は親類の家にお世話になりながら長崎に出て、23歳で結婚しました。息子の嫁がきたころから、両膝下に赤いじんましんのようなものができはじめ病院に通うようになりました。被爆したことによるものか、膠原病と言われたり、骨髄癌とも言われ、骨髄液を検査する苦痛、また抗がん剤を使用した時期は髪が抜ける副作用が現れたり、その頃の薬で、現在も骨が脆くなっているようです。ステロイド服用の治療も十数年続けました。治療はつらかったですが、原爆による外傷はなく、今、こうやって生きています。