被爆体験記「青空」 末﨑 ハツエ
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末﨑ハツエ(当時23歳)大橋町(1.1km)
当時、私は祖母と父の三人で音無町に住んでおり、三菱兵器工場(大橋工場)で働いておりました。あの日も、いつも通りに出勤しましたが空襲警報が鳴ったため、住吉の防空壕に避難しました。警報が解除になり再び工場に戻り仕事に取り掛かって十から十五分ぐらい経ってからでしょうか…「ふせい(伏せろ)」の言葉と同時に、今までに聞いたことが無いくらいの大きな音。「ピカッー」と凄い光。一瞬で周りの物全てが吹き飛びました。最初は原子爆弾とは分からずに、工場内でガス溶接しているところが爆発し、光ったものだと思っていました。私はバイス台(作業をしていた台)があったので、飛ばされずに済みましたが、肩甲骨あたりと頭を怪我していました。そして、ふと周りを見ると人はあちこちに飛ばされており、工場の重い扉でさえ飛ばされていました。私の後ろで作業をしていた人も吹き飛ばされ、柱などが倒れて首を直撃し即死していました。他にも、溶接をしていた人たちも柱や材木の下敷きになっており助けようとしていると、「鋳物(いもの)の方(工場内の部署)から火がまわりよるけん早く逃げろー」と男の人が走ってきたので、その人に手伝ってもらい三人を助け出しました。そして四人で裏の門から逃げました。途中、三人とはぐれましたが、私は無我夢中で家まで帰りました。途中で、目や舌が出てる人、皮膚が垂れている人、真っ黒に焦げた人を見ましたが、とにかく家へと急ぎました。帰ってみると、家も近所の家も全部燃えてなくなっていました。近くに人が集まっていたので、父と祖母のことを聞くと近くの防空壕に逃げたとのこと。防空壕に行くと、祖母がいました。父は、私を捜しに行ったと聞きました。二人の無事を確認し、私は周りで怪我している人の手当てにあたりました。中には怪我しているところにウジ虫が湧いている人もいました。
それから数時間経って、私は工場内で班長をしていたので班員の無事を調べて、組長(部長)に報告しなければならないと思い、長崎駅まで班員を捜しに行きました。その途中でも、この世のものとは思えないものを目にしました。川も道も死人がいっぱい、「たすけてー」「水をくれー」という呻き声もたくさん聞きました。死人の上を歩きもしました。異臭も漂っていました。あの時、何も出来なかったという思い…そして、あの情景は今も忘れることが出来ません…。それから班員を捜し回り、十人程の無事を確認することが出来ました。しかし今度は組長が見つからず、とりあえず工場の方へ行ってみました。そこには知り合いがいたので、その人に報告しました。帰ろうとしていると、工場近くで死体を燃やしている人たちに弁当(にぎり飯・たくあん・真っ黒の芋)を配ってくれと言われ、手伝いました。夜が更けてきたので一旦防空壕に帰りました。すると父も帰っており、父は怪我をしていましたが、お互いの無事を確認しその日は就寝しました。そして、翌朝から私は再び工場へ向かい三日三晩かけて、たくさんの死体を材木と一緒に燃やしました。それから二〜三週間は防空壕の中で、皆で食材を持ち寄り、南瓜やおじや、芋などを食べて暮らしておりました。途中、配給でにぎり飯がまわってきましたが、「もらえない人のために。」と私たちは貰いませんでした。
もう、あんな思いは絶対にしたくない。「もうよか!」「兵隊が戦争は恐いと言っていたけど、あの時は体験したことなくて分からんやった。けど、原爆に遭ってよう分かったよ…恐ろしさも何もあったもんじゃない!」「戦争は二度と嫌!」