被爆体験記「青空」 奥村 崇子
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原爆体験記 第17集「伝言」 奥村崇子
1927年生まれの私は文字通り昭和激動時代の証人として身を置いて来ました。原爆投下から早や57年の歳月が流れ、いつか平和という言葉に癒され、自分自身が被爆者であったことも忘れる月日でした。しかし今から20年前、四期のがんと診断され、おびただしい放射線治療を受けながら今も尚、人知れない後遺症と闘っています。2年半前、この原爆ホームに入所し、すでに言葉を忘れた人、記憶を失った方々に接し、そして今迄知らなかった原爆の資料を見るにつけ過去を閉ざすものは現在を語れないと思い来園される各地、各国の人々と接し、何故この長崎に原爆が落ち、語り切れない原爆の禍根を残さなければならなかったのかという悲惨な戦争史の一端を話すことにしました。昭和2年生まれの私達年代のものは、体験した15年戦争を記憶し語れる最後の語り部と思い、今ではトラウマになっている沢山の悲惨な出来事をたぐり寄せ戦争を知らない世代に話して居ります。しかし、現実には私達が日清・日露戦争の話を聞いても実感がなかった時と同じだと思います。嫌なことでも口にしないことを教えられた我々の子供時代と異なって、今は面白くない、興味がないと言葉や感想文で表現されているのを見聞きします。けれど被災時の実感を詠んだ小さな詩、唯一言の心にしみる言葉こそが若い人たちの胸にひびくことも知りました。最後に原爆ホーム別館で演じられる、身体もそして言葉も不自由な方々が懸命に伝えようとなさるお姿に原爆を実感し、流れる涙を拭くことも忘れて感動する若い人たちを見ることが出来ました。殊に英語劇にもなった『鬼のごたる』は、私達が百年生きて語りかけても及ばぬ誰もが心ふるえるものでした。私達が伝えた20世紀の戦争の空しさ、身を以って平和の尊さが後世の人々に確実に伝えられることを信じて筆を結びます。