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被爆体験記「青空」 尾崎 レイ子

尾崎 レイ子 「忘れられないあの日」

 当時私は十九歳、茂里町の三菱重工長崎兵器工場に勤めていました。その日は兄から「広島に新型爆弾が落ちて長崎も軍事工場があるから狙われるかもしれん、空襲警報が鳴ったらすぐに帰ってこい。」と言われていました。仕事に出ると、空襲警報が鳴ったり解除になったりしていました。「空襲警報発令…」そのアナウンスが聞こえたと同時に目がくらむほどの光と爆風で、自分は飛ばされていました。自分は死んでしまったのか?と思い皮膚をつねってみると痛かったので、生きているんだとわかりました。しかし肘や腰を怪我し、血がスタスタと流れ出ていました。それでも歩くことはできたのです。大学病院に行きなさいと言われましたが、自分よりひどい怪我をしている人がたくさんいるのに、自分だけ病院には行けないと思いました。私はそのまま浦上の方に向かって歩きました。しかし、自分も怪我をしている身、傷口から血が出たり、腹痛がしたりして、途中で何度か嘔吐しながらも歩き続けました。途中で多くの人に助けを求められましたが、人の面倒を見る余裕すらありませんでした。そんな状態で大橋、住吉、道ノ尾と歩き、自宅がある時津にたどりついたのは、その日の夕方五時を回っていました。原爆が落ちてからずっと、逃げるように歩きつづけていたのです。自宅にいた母と兄弟は無事でしたが、家は傾いてしまっていました。父は東京の小さな会社で働いており長崎にはいなかったので、家族は皆無事でほっとしました。周りにいる人々もみんな怪我だらけで、自分はずいぶん軽い方だったと思います。そんな人の前を歩くのにうしろめたさもありました。その後は怪我の治療のため自宅で療養しました。

 原爆のことは今でも忘れることはできないし、あの日のことは良く覚えていますが、本当に辛い体験でした。二度とこんな残酷な戦いや争いは嫌です。平和な世界を祈っています。

 
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